【おしらせ】

ブログの投稿はnoteに変更いたしました。そちらでもお楽しみいただければ幸いです。

修行に終わりはないのだ

 

いつものことだが、この記事では解説もするがワイの自論が多分に含まれる。

ガチで学びたいひとは学術書を読むことをオススメするぞ!


なお、この記事の内容は以下の本をもととしているぞ。


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以前もサンユッタ・ニカーヤをとりあげたが、神と尊師(ゴータマ・ブッダ)との会話という形で成り立っている。

多くは神が問いかけ、それにゴータマ・ブッダが答えるという感じである。


ちなみにこの「神」とは、キリスト教でいうところの「GOD」とは異なるものである。

仏教では世界をつかさどるような唯一神の存在を認めていない。

古代インドでは(現在もそうかもしれないが)人間界の上に天界があり、そこに住んでいる住人を「神」と呼んでいた。

個々の自然に対して神(精霊のようなもの)が存在するというアニミズム的な民間信仰の影響もあり、樹木などに宿る精霊も神と呼んでいたりする。

(※ただしこれは和訳で「神」と呼んでいるのであって、パーリ語原文だと種々の呼び方がされている。)

そして、神は世界で最上の存在ではなく、正覚者であるゴータマ・ブッダのほうが地位としては上である

ゆえに、神はゴータマ・ブッダの前に現れるときには敬礼をする。

天界に住む神にも人間のように煩悩があるのである。


在家信者は人間界での死後にこの天界に生まれることを願って善行をし功徳を積む。

いっぽう、出家修行者は人間界での死後に天界においてさえも生まれることがない終滅をめざす。



〔神いわく、〕
「みずから恥じて自己を制し、駿馬が鞭を受ける要がないように、世の非難を受ける要のない人が、この世に誰かいるであろうか。

岩波文庫『ブッダ 神々との対話ーサンユッタ・ニカーヤⅠー』中村元訳(26-27頁)



駿馬は鞭(ムチ)で叩かなくとも、鞭を見るだけで走るお馬さんらしい。

つまり、「叩かれないように気をつけていて他者から非難を受けることがない人は存在するのだろうか?」という問いである。


そして、それに対するゴータマ・ブッダの答えが以下である。


〔尊師いわく、〕
「恥を知って制する人は少ない。……」

岩波文庫『ブッダ 神々との対話ーサンユッタ・ニカーヤⅠー』中村元訳(27頁)



「恥」とは漢訳では「慚」と訳され、『雑阿含経』では「慚愧心」と訳されているようである。

これを西洋の学者は「良心に照らして自覚すること」と解しているとのこと。

つまり、「非難されるようなことをしないように十分気をつけていて誠実である人は少ない」とゴータマ・ブッダは答えているのである。

この「少ない」の部分を漢訳の『雑阿含経』では「希有」と訳しているようなので、「非難されるようなことをしないように十分気をつけていて誠実である人は滅多にいない」と解釈してもいいと思う。


私たちも非難されないように気をつけて生活しているはずである。

とくにTwitterとか!

Twitterにおける非難はクソリプや炎上だろう。

炎上なんてしたらもう気持ちは落ち込むし自尊心もボロボロになるし、他者に不快な思いをさせてしまった罪悪感にも苛まれるしで平常心ではいられないと思う。

だから気をつけてはいると思うけど、どんなに気をつけていても大なり小なり非難されることはある。

ぜったいに非難を受けることはないという人はほぼいないんじゃないだろうか。


出家修行者も、非難を受けることがないように慎み気をつけて生活しているであろう。

私たち以上に気をつけていると思われる。


しかしその後に続く言葉、


「……かれらはつねに気をつけて行い、苦しみの終滅に到達して、逆境にあっても平静に行う。」

岩波文庫『ブッダ 神々との対話ーサンユッタ・ニカーヤⅠー』中村元訳(27頁)



「苦しみの終滅に到達して」とはニルヴァーナ(涅槃)に到達したということである。

そのような優れたひとが「逆境にあっても平静に行う」。

つまり、ニルヴァーナという苦しみのない境地に達した優れた者であっても非難を受けることがあったということじゃないだろうか。

実際、完成者であるゴータマ・ブッダを非難する人はいたようだったし。


他者を傷つけないよう、そして自分自身も傷つけることのないように言葉や行動に十分気をつけていても、非難されるという逆境はあるのである。

それは不快で苦しいことだと思う。

しかし出家修行者は、それに対して怨み、怒り、落ち込むことなく平静でいられるように努めるのである。


なにが言いたいのかというと、修行を完成しても生きている以上はやはり苦しみは降りかかってくるのである。

修行が完成したら一切の苦しみから解放されて心穏やかに生きていけるのではなく、常に自制し苦しみがあっても心穏やかにいられるように努めるのが修行であって、その修行は身が滅ぶまでずっと続くのである。

ニルヴァーナ(涅槃)は到達したら終わりなのではない。

その後も修行をつづけて活動をすることがニルヴァーナ(涅槃)の境地なのである。

ちなみに、いま自分たちが生きているこの世界のほかにニルヴァーナ(涅槃)という世界が存在すると思っているひとがいるかもしれないが、そんな世界は存在しないぞぃ。




 

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