【おしらせ】

ブログの投稿はnoteに変更いたしました。そちらでもお楽しみいただければ幸いです。

論争が起こる原因

 

まずはじめに、この記事はブッダの教えを解説するというよりもワイの思ったことや考えについて述べるものである。

それを書くうえで多少解説が必要な場合があるんだけんども、堅苦しさは抜きにゆる〜く書いていこうと思う。


今回はちょっと長いので覚悟しておくように!



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さて、今回は原始仏教聖典のなかでも最古といわれているものの一つ『スッタニパータ』の「マーガンディヤ」という節でございます。


マーガンディヤとは、そうゆうお名前のバラモンのことである。

つまり、マーガンディヤ(男性)さん。

仏教聖典のなかで「バラモン」というワードはいろんな意味で使われているんだけど、ここでいうバラモンはカースト制の最上位であるバラモンのことで、バラモン教を信奉しているひとのことである。


そのマーガンディヤさんが「うちの娘を嫁にしないかい?」と、盛り盛りに着飾った自分の娘を連れてゴータマ・ブッダのところにやってきたときのやりとりについて書かれている。


(ふっ…結婚相手を自由に選べないなんて、気の毒だのぉ)


読者さんはすでに想像がついていると思われるが、ゴータマ・ブッダはこのお誘いをお断りするのである。


「……糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」

岩波文庫『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳 第四、九、第835詩(185頁)


うーむ…断るにしてもひどい言い草じゃ!

若い娘さんを前にしてウ◯コ呼ばわりかい!?


(。-_-。)


まぁこうゆう表現には理由があるんだけどね。

でも今回の記事の趣旨とは関係ないのでスルーしておく。



さて、この返答を聞いたマーガンディヤさんはゴータマ・ブッダに尋ねた。


「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」

岩波文庫『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳 第四、九、第836詩(186頁)


つまり、こんなすんばらしい女性との結婚を断るなんて、あなたはどんな教義や戒律に従って生きているのか、それに従って生きることで何が得られるのか?とマーガンディヤさんは尋ねたのである。


そしてゴータマ・ブッダはこう答えた。


「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

岩波文庫『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳 第四、九、第837詩(186頁)


「マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。
『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。
それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」

岩波文庫『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳 第四、九、第839詩(186頁)


後者(第839詩)については「どっちなんだい!?」という答えで不可解である。

マーガンディヤさんは「そんな教えはばかばかしい! ナンセンスじゃ!」「教義によって清らかになれるのだと思うんだが!」と言った。


ふむ。マーガンディヤさんの意見がまぁ一般的だよね。

現代だって、宗教には教義や戒律(ルール)や決められたしきたりなどがあって、それに則って生活することで幸せになれると説くもんね。

とくに出家修行者は教義やルールを厳密に守ることを求められる。

なのにゴータマ・ブッダは、教義を守ることによって清らかになれるわけではないし、かといって教義を守らなかったら清らかになれるわけでもないという、どっちつかずの返答をしたのである。

そりゃあ「なんじゃそりゃ!?」となっても仕方あるまい。


それに対してゴータマ・ブッダが言ったのが、この記事の冒頭にある言葉である。

そして、それがどうゆうことなのか説明するのである。


『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、——かれはその思いによって論争するであろう。
しかしそれらの三種に関して動揺しない人、——かれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。

岩波文庫『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳 第四、九、第842詩(187頁)


そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。
またかれは『(汝の説は)虚偽である』といって誰と論争するであろうか?
『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑むであろうか。

岩波文庫『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳 第四、九、第843詩(187頁)



つまり、「オレの考えが正しい」「キミの考えは間違っとる!」と、考え方に優劣をつけることで論争が起きるというのである。


ブッダは互いを傷つけ合う争いは避けるようにと言っている。

それは論争についても同様なのである。


論争といえば、Twitterではいつ何時もあちこちで炎上が起こっているけど、あれも論争だわなぁ。

自分の意見が正しい、だからオマエは間違っている!と。

そしてそこから誹謗中傷が生じるのだ。

デジタルな殺生行為である。


ちなみに第842詩、


それらの三種に関して動揺しない人、——かれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。


この「三種」とは、①欲望、②敵意、③害意のことのようである。


  1. 自分の意見を認めさせたい
  2. 自分の意見を認めない相手への敵視
  3. 自分の意見を認めない相手を痛めつけてやりたい


こんな感じのことをいうのだろうか。

これら三種がない人は自分の考えに優劣をつけないから論争が起きないというのである。

つまり、他の意見と比較しようという意識すらないということである。


そして、少し前に紹介した第837詩


……諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、……


自分の考え方や信奉している教義は正しくて他は間違っているという考え方そのものが偏見なのであり、それに固執する(こだわる)ことで争いが起きる。

さらにこの節の終盤には、「自分の考え方は正しい」という思いは慢心である、というようなことも書かれている。




これは中道につながるものですかな?

このスッタニパータが編纂された時代にはまだ中道という言葉はなかったと思うが、極端を離れるという意味では中道のような気がする。


どっちつかずな意見はハッキリしなくてモヤモヤするが、当時の出家修行者はそういった争いのある俗世から離れた世界で生きていたということである。

そういった争いは心を乱されるのでもう懲り懲りだったのだ。

そう想像するイカ耳なのでした。



 

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