【おしらせ】

ブログの投稿はnoteに変更いたしました。そちらでもお楽しみいただければ幸いです。

「良かれと思って」からの報い

本を読んでいて思ったことがあったので書いてみようと思う。


鍛冶工の子チュンダの話。

ブッダが人生の晩年である80歳の頃、旅の途中に立ち寄った土地で、鍛冶工(金属細工人)であるチュンダから食事をご馳走になった。

その食事のなかに【スーカラ・マッダヴァ】という食べ物があったのだけど、それを食べたブッダは中毒を起こしてしまい、ひどい下痢と出血に苦しむことになった。

それが原因で、ブッダは亡くなってしまう。


ちなみに【スーカラ・マッダヴァ】については諸説があって、「豚肉のなかの脂の多い部位」とか「きのこ」ではないかといわれている。

中村元氏は、きのこではないかと推測している。



ブッダは、自らが苦痛に苛まれているなか、チュンダのことを気遣った。

チュンダが「自分の供養した食べ物で釈尊は亡くなってしまった」と悲しんだり、周囲から非難されるかもしれないと思いやった。


温かいお方だねぇ。


そしてブッダは、かれに心配させないように次のように言え、と伝えさせた。


二つの供養の食物には最上の功徳がある。
それは、さとりを開いた直後に〔二人の敬虔な商人から〕供養された食物と、チュンダが供養した食物とである。
        【出典】中村元選集[決定版]第12巻 ゴータマ・ブッダⅡ p.293


チュンダの捧げた食事でブッダは病気になってしまったけれど、チュンダの心は純粋だった。

すなわち、清らかな心で事を行なったならば功徳があるはずだ、というのだ。



この二つの供養の食べ物について、「ひとしい果報がある」と経典に書かれている。

ここでいう果報(vipāka)は、漢訳で「異熟」と訳すことがあるらしい。

「異なって」(vipāka)果報が「熟す」(pāka)ということのようだ。


善い行ないをすれば、楽の果報がある。

悪い行ないをすれば、苦の果報がある。


原因となる行ないは善または悪であるけれども、結果としてあらわれる苦または楽は、善でも悪でもない。

だから、果報は「異類にして熟する」のだという。



善い行ないをしたつもりが、結果苦しむことになってしまったということはしばしば起こる。

「良かれと思って」というやつだ。

つまり、善い行ないの結果、苦の果報があることもあるということだと思う。

しかしその場合の苦は、善でも悪でもないのだ。



病気になった自分は、過去に何か悪いことをしたのだろうか?

何か悪いことをしたから、病苦という報いを今受けているのだろうか。

自分が何をしたというのだ!


そう考える人がいるようだけど、悪い行ないをした報いで病気になったわけではないと思う。

ぶっちゃけ、たまたまそうなったのである。

上の説からすると、「善い行ない→楽」「悪い行ない→苦」という図式になるとは限らないということだと思うから。



原因となる行ないの結果による苦・楽は、善でも悪でもないという。

しかし、人は「苦=悪」だと考える。

当然だ。自分自身にとって苦とは都合が悪いことなのだから。


が、ブッダは清い心で善い行ないをすることを勧めている。

それがチュンダのような苦しい結果になったとしても、清い心から行なったことは善い果報をもたらすという。

ブッダは「与える」という善行を勧めている。



実際どうなのだろうか。

良かれと思ってやった結果、その相手は陰で悪口を言っていたとか、むしろ迷惑に思われているとかあり得るのではないだろうか。

現在コロナに対する政策に批判が多く出ているけれど、政治家たちは「良かれと思って」やっているのかもしれない。

ブッダの言うことが正しいとするならば、政治家によるコロナ政策の結果が苦であろうが楽であろうが、それは善でも悪でもないということになる。

しかし、善いという意見は聞かないなぁ。

ということは、清い心からの行為ではないのかもしれないな。



おちまい


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